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横浜・熊本・札幌バンド


横浜バンドの誕生


宣教師バラの働きにより横浜海岸教会が建てられたましたが、当時横浜には新しい時代を求めて士族の息子たちが学びに来ており、その中からバラ宣教師の英語塾に通い、後に教会に足を運ぶ者たちが出てきました。押方方義、井深梶之助、本多庸一植村正久らです。

そして岩倉使節団が横浜を出航して10日後の、1872年正月2日から新年祈祷会がもたれ、30〜40人の若者たちが熱心に祈ったところ聖霊が臨み、強力なリバイバル(信仰復興)が起りました。この祈祷会は当初1週間の予定でしたが数十日も続き、多くの者が涙で改心。キリストによる救霊を確信し、横浜バンドを結成しました。バンドとは信徒の群れのことです。

日本の初期プロテスタントの精神的源流は、この横浜バンドと、熊本、札幌の3バンドによって形作られたといわれています。


花岡山と熊本バンド


熊本バンドは、熊本洋学校に校長として赴任したL.L.ジェーンズの薫陶を受けた学生たちによって結成されました。熊本市郊外にある花岡山に登り、そこでキリスト教を奉じ、その教えを日本に広く宣布し、ひいてはこの国をキリスト教国にしようという趣旨の「奉教趣意書」を朗読し、35名が署名しました。

主なメンバーは小崎弘道海老名弾正浮田和民宮川経輝徳富蘇峰らです。しかしこの群れは、熊本に教会を形成したのではなく、洋学校が閉鎖されたときにジェーンズのアドバイスもあって、1875年に開校したばかりの同志社に移っていき、そこで活動するようになりました。

彼らの多くが卒業後、プロテスタント教会の伝道師として用いられたり、同志社の教授となったりしました。熊本バンドの人々は他と比べ、国家主義的、自由主義的傾向を持っていました。


クラーク博士の札幌バンド


札幌バンドは、札幌農学校の初代教頭(実質的には校長)クラークの感化によって入信した学生たちによって作られました。クラークの在任はわずか8ヶ月で終わりましたが、学生たちに知識と人格の教育を施し慕われました。札幌を去るにあたり「イエスを信ずる者の契約」を作成し、学生たちに署名を求めたところ、一期生全員が署名しました。

クラークとの別れを惜しむ教え子たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言葉を残したことはあまりにも有名です。その一期生の中に大島正健らがおり、続く二期生には内村鑑三新渡戸稲造、宮部金吾らがいました。

札幌バンドは学校で始まったことから、集会のあり方として最初から、個人主義的、無教派主義的でした。後に無教会派の指導者となった内村鑑三の原点になったといっても過言ではありません。これらの群れからは教師や学者が多く輩出され、日本のキリスト教界のみならず、思想界に少なからぬ影響を与えました。


高札撤去後の教会形成


1872年に高札が撤去され、キリスト教が黙許されると、来日する宣教団は急増し、伝道する一方で神学校を建て信徒を養成したので、日本人教役者が誕生するようになりました。日本政府も欧化主義を採ったので、キリスト教に対する風向きは一変しました。そこで各地に教会が建てられるようになったのです。

しかし1880年代後半からは、欧化主義への反動が起り、天皇を中心とする国家主義的傾向が強くなりました。明治政府は欧米諸国による植民地化を免れるため、脱亜入欧を目指し、富国強兵策を採りました。そして1889年、天皇を神格化した大日本帝国憲法が発布されました。

この憲法の発布に続き、翌年天皇の名で教育勅語が出されたのですが、それに対して最敬礼をしなかったとして、内村鑑三は国賊と呼ばれ攻撃されました。これを不敬事件と言います。このように日本が国粋主義に傾いていく中で、クリスチャンは国家と信仰について考えていかなければならない時代となりました。




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