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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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高札撤去


キリスト教弾圧に対する諸外国からの抗議


横浜などで宣教が密かに進む一方で、カトリック教徒に対する日本政府の迫害は衰えることはありませんでした。イギリス公使パークスをはじめ諸外国の公使たちは、浦上キリシタンの強制流罪決定に対して明治政府に強く抗議しましたが、第一次流罪は実施され、その後も流罪の中止を求めましたが、第二次流罪も行われました。

流配先での信徒の様子を実際に見た外国人が、横浜の英字新聞にその様子を投稿したのですが、それが再び外国人たちの抗議活動に火をつけ、諸外国から明治政府に待遇改善の要請が訴えられました。これを受けて明治政府が人を送って諸藩の実態を調査させたところ、苛烈な虐待が露見して問題となり、政府も諸藩に待遇改善を指示するようになりました。

しかしその一方で、1871年キリシタン67人が逮捕されるという伊万里事件が起こり、諸外国からの抗議は止むことがありませんでした。


岩倉使節団の欧米視察


この頃明治政府を代表して、岩倉具視使節団が欧米へと出発しました。優れた欧米の文化を吸収し、知見を広めるという名目の裏には、安政の五カ国条約の不平等条項を改正する足がかりを見つけたいという希望が込められていました。

しかし日本国内でのキリスト教弾圧の状況を新聞に取り上げられたため、岩倉使節団が行く先々で受けるのは激しい抗議活動で、一般民衆から政府関係者にまで強い非難を浴びせられることとなりました。予想した以上の抗議を受けた岩倉具視は、このままでは条約改正どころか、交渉のテーブルにもつけないことを実感しました。

そこで日本にいる伊藤博文に「浦上キリシタンをただちに釈放しなければ、対等の外交を行えない」と打電し、明治政府にその旨を伝えるよう要請しました。


高札撤去


これを受けて1873(明治6)年2月、明治政府はついに太政官布告でキリシタン禁令を含む高札を撤去するとし、キリスト教禁令が261年ぶりに解かれることとなりました。しかしこれで信仰の自由が完全に認められたわけではなく、キリスト教黙許の時代に入っただけでした。

信教の自由が認められるのは大日本帝国憲法、信教の自由が保障されるのは、終戦後日本国憲法の発布まで待たなければなりませんでした。


浦上キリシタンの帰郷


高札撤去の太政官令が出て、1873(明治6)年3月までに浦上キリシタンは釈放され、4月から6月にかけて長崎に帰郷して行くことができるようになりました。しかし「旅」(キリシタン弾圧による流配のこと)から戻った信徒たちには過酷な現実が待ち構えていました。

流配されて行く者たちは処刑されるものと考えられたため、信徒たちの家は略奪に遭い、家財道具は何も残っておらず、家も壊され、畑も荒れ果てていました。1873年に村へ戻った1930人のうち、家があったのは1164人、家のない者は766人で、改心(棄教)したため前年に帰村した者にも家のない者が589人いました。キリシタンたちは、戻ってからも苦しい生活を強いられることとなったのです。

しかし芋の根をかじって飢えをしのぎ、田畑を割れた陶器のかけらで耕して、元の生活を取り戻した浦上キリシタンたちは、自分たちの村に聖堂を建てることを夢見、働いて、禁教令時代に迫害した村の庄屋の家を買い取って、その敷地に聖堂(浦上天主堂)を建てました。そして「旅」の生存者たちは、その前に「信仰の礎」と刻んだ石碑を建て、信仰の勝利を神に感謝しました。




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