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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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浦上キリシタン流配事件


明治政府と五榜の掲示


長崎に天主堂が建てられて信徒が発見されている頃、日本は大きな変革を迎えていました。江戸幕府から明治政府へと変わったのです。1867年11月江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌日天皇がこれを勅許したことを、大政奉還といいます。これに続き12月の王政復古の大号令において、幕府の廃止が公式に宣言されました。

大政奉還の翌年、1868年の途中で元号が慶応から明治になり、正に時代が江戸から明治へと移る節目の年となりました。1868年4月、明治天皇は公家や大名向けに「五箇条の御誓文」を示し、その翌日に太政官が五榜の掲示を民衆に出して、明治政府の基本方針を示しました。

五榜の掲示は五枚の高札に書かれて、高札場に掲げられた訳ですが、第三札に書かれていたのが切支丹・邪宗門厳禁でした。また高札には、キリシタンの疑いのある者を密告すれば褒美を取らせるという一文もやはり書かれていました。時代は明治になっても、キリシタン禁制はそのまま引き継がれれていたのです。


浦上四番崩れ


教会への復帰を遂げた浦上キリシタンたちは、神父と交流するうちに徐々に信仰を表明する方向へと傾いていきました。1867年春、浦上村の者が死んだとき、檀那寺の僧侶を呼ばずに自分たちで埋葬する事件が起りました。江戸時代に布かれた寺請制度では、絶対にしてはならないとされていたことです。寺が庄屋に訴えて問題になりましたが、その最中にも僧侶を断り肉親を自葬する者が現れました。

これは信仰の自由を認めて欲しいがためでしたが、政府の政策に逆らうものだったので、この自葬事件が「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧のきっかけとなりました。1867年7月、長崎奉行所の役人が、キリシタンの秘密礼拝堂を取り囲み、信徒68人が捕らえられました。牢内で厳しい拷問を受けて21人が棄教を申し出ました。これに対して諸外国の公使はひどい宗教弾圧であると非難。日本政府に抗議しました。

1868年4月、明治政府は神道を国教とする方針を示し、5月の御前会議で浦上キリシタンを各地に分散して流配することが決定されました。諸外国の公使は政府に流配中止を申し入れましたが受け入れられず、浦上村のキリシタンは総流罪となりました。まず1868年に114人が3藩に、1870年には3280人が20藩22ヶ所に分けて移送されました。

浦上キリシタンたちはこの流配のことを「旅」と呼んで忍びました。


流配先での苦難


長崎の港に集められ、キリシタンは人間ではないからと「1匹2匹」と数えて船に乗せられて、各地に流配されていった信徒たちを待ち受けていたのは、死と隣り合わせの生活でした。飢えに苦しめられ、餓死した者もあれば、劣悪な環境で疫痢が蔓延し病死した者もいます。島根の津和野、山口の萩では過酷な拷問で棄教させようとしたため、健康だった若者も牢死しました。

諸藩の中でも和歌山や高知では、信徒の死亡率が33%を超えました。飢渇で苦しめられたところに、熱病が流行ったからです。牢内の衛生状況も極度に悪く、多くの子供たちが死亡しました。

金沢では雪の中に裸で一晩中座らせるなど、北陸では寒さを使って信徒を責めました。また首に犬のように首輪を付けられ引っ張られていたのですが、そのような浦上キリシタンの姿を見た、政府のお抱え外国人がショックを受け、同じキリスト教徒に対するこのような取り扱いを黙って見ていることができず、横浜にあった英字新聞に投稿したのですが、それを読んだ在日外国人から激しい非難が巻き起こりました。

明治2年末から明治6年5月まで、およそ3年半続いた牢屋生活によって、流配された3394人のうち、613人が命を落としました。彼らのことをカトリック教会では、最後の殉教者と呼んでいます。




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