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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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東洋の奇跡!信徒発見


安政の5カ国条約


1853年にペリーが来て、翌年日米和親条約が結ばれるようになり、それに基づいて1856年にタウンゼント・ハリスがアメリカ総領事として来日し、通商条約の締結を通して、日本国内での「アメリカ人の」信教の自由を認めさせ、居留地内に「外国人のための」教会堂を建てる許可を得ました。1858年(安政5年)のことで、同じような内容の条約を他の4カ国(イギリス・フランス・ロシア・オランダ)とも結んだので、この条約のことを元号を取って、安政の5カ国条約といいます。

一般に日米修好通商条約など安政の5カ国条約は、列強の外交圧力によって締結させられた不平等条約だったと、歴史の教科書では習います。関税の自主権がなく、日本で罪を犯した外国人を日本人が日本の法律で裁くことができない、という問題がありました。その点は後に是正されるべき課題として残り、実際に解決されていくんですが、注目すべきは日本国内でキリスト教を信じても良いとされたことです。

ハリスはこれが簡単に認められるはずはないと考え、慎重に言葉を選び事を運んだわけですが、日本側が何の文句もつけずにあっさり受け入れたので、驚いて、こう書いています。 「それが承認されたことは、私には大きな驚きであり、喜びでもあった」と。


居留地の教会


このような安政の5カ国条約のおかげで、日本国内に設けられた外国人居留地には教会堂が建設されるようになり、宣教師も送られるようになりました。名目は、居留する「外国人のために」建てた教会で、それを牧会するために来る宣教師ですが、皆心では日本での布教、カトリックでは再布教を願っていたことは言うまでもありません。

最初に港が開かれたのは、箱館、横浜、長崎、神戸、新潟の5港で、港の周囲に居留地が定められました。外国人はここにしか住めず、当初は居留地から10里(40キロ)以上出歩くことも禁止されていました。日本ではまだ尊王攘夷の嵐が吹き荒れていて、外国人は敵だと考える人も多かったので、居留地には外国人を一ヶ所に集め保護し、日本人との紛争を防止するという役割もありました。

1858年に横浜が開港されると、1859年沖縄に待機していたパリ外国宣教会のジラール神父が、フランス総領事の通訳兼司祭という身分で、日本の本土を初めて踏みました。そして1862年、横浜に「聖心教会」と名付けられた教会堂を建てました。


長崎の「天主堂」


「聖心教会」の建設後、ジラール神父は、長崎に教会堂を建てるよう人を送りました。1864年に、まず沖縄に待機していたフューレ神父をまず最初に送ったのですが、フューレ神父が病気になったため、代わりになる若い神父を派遣したのですが、それがプチジャン神父でした。そしてその年の暮れ、「居留する外国人のための」、美しい教会堂が長崎に建てられました。

「居留する外国人のための」はずでしたが、教会堂の一番目立つ場所には「天主堂」と日本語で書かれていました。これはキリシタン時代に信徒が教会を呼んでいたときの呼び名です。キリシタン時代、あの過酷な迫害を耐え忍んだ日本に信徒の子孫が潜んでいないか、いるとしたら九州であろう、長崎ならばその可能性があると、神父たちは見込んで、ちょうど折りよく開港されることとなった長崎に、「天主堂」を設けたわけです。

それは、隠れ信徒がいたら、この「天主堂」という文字を見て、反応して、やって来るのではないかと考えてのことです。その「天主堂」の文字を熱い瞳で仰いでいる人たちがいました。長崎の浦上村にいた隠れキリシタンの人々です。

彼らは迫害期に殉教したバスチャンといわれる人の預言を心の拠り所にしてきたのですが、その預言では「七代忍べばパードレ様(神父様)が船でやってくる。サンタ・マリアの御像を持ってやってくる。そうしたら大きな声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代が来る」と言われていました。そして彼らはちょうど、隠れて信仰を守り抜いたキリシタン7代目の子孫たちだったのです。

しかし、キリシタンだとバレたら殺されるからと、村では長い間秘密に秘密にしてきたのに、ここで明らかにして本当に大丈夫なんだろうかと、キリシタンの末裔たちの間にはすごい葛藤がありました。一方、プチジャン神父の方は、諦めかけていました。誰も訪ねて来ることはなく、幕府の役人たちは「日本にキリシタンなんて、もう何百年も前から一人もいません」と、嘲るように言われていたからです。


ワレラノムネ、アナタトオナジ


両者の願いが叶うのは、1865年3月17日のことでした。実際にプチジャン神父がジラール神父に宛てて書いた手紙を以下に引用します。

「昨日の12時半頃、男女子供を合わせた12名ないし15名の一団が、単なる好奇心とも思われない様子で天主堂の門に立っていました。天主堂の門は閉まっていましたので、私はそれを急いで開けに行きましたが、私が聖所の方に進むにつれて、次第にこの参観者たちも私についてきました。(中略)私がほんの少し祈った後でしたが・・・40歳ないし50歳くらいの婦人が私のすぐそばに来て、胸に手を当てて申しました。『ワレラノムネ、アナタトオナジ』『ここにおります私共は、全部あなた様と同じ心でございます』と。

『本当ですか?しかしあなた方はどこからお出でになりましたか?』と私は尋ねました。『私たちは皆、浦上村の者でございます。浦上村ではほとんど全部の人が、私たちと同じ心を持っております』。それからこの人はすぐに私に聞きました。『サンタ・マリアの御像はどこ?』と。このサンタマリアによって祝された言葉を聞いて、私はもう少しも疑いませんでした。私は確かに、日本のキリシタンの子孫を目の前にしているのです。私はこの慰めを神に感謝いたしました。この愛する人たちに取り囲まれ、せき立てられて、私は、あなたがフランスから私たちのために持参して下さいました聖母の御像が安置してある祭壇に、彼らを案内しました」

これが、世界宗教史上の奇跡とも言われる、「信徒発見」の瞬間でした。長崎の郊外、浦上村のキリシタンが、一人の神父もいない中で、自発的に信徒の組織を作って村ぐるみで信仰を守り通して、禁教下の約250年を耐え忍び、開国後再び訪れるようになった外国人神父に、信仰を告白し教会へと復帰したのです。

このような信仰の歴史を持つ国は、世界中どこを探してもありません。なのでこれを「東洋の奇跡」と呼ぶ人もいます。この歴史的出来事は、プチジャン神父が横浜のジラール神父に手紙を書き、ジラール神父からローマの教皇に報告されたのですが、これを聞いた教皇ピオ9世は、感動のあまり涙したと伝えられています。


復活するキリシタンたち


「信徒発見」は信仰の勝利の瞬間でしたが、まだ始まりに過ぎませんでした。2百数十年もの間、自分たちで信仰を守って来たと言うけれど、その信じる所が徐々に変わっていってしまっていないかを、プチジャン神父は確かめる必要がありました。それで、同僚のロカイン神父らと夜陰に紛れて浦上村を訪れ、彼らのオラショ(お祈りの言葉)や信仰的に守って来たことなどを聞いて、信仰が変質していないことが確認されました。

驚くべきことに、隠れキリシタンの唱えるラテン語のオラショは、プチジャン神父が聞いて意味がわかるほど正確に伝えられていたということです。祈りの言葉の意味や教理を尋ねると、子供たちですらちゃんと答えることができました。隠れた組織であったにも関わらず、よくぞ立派に伝え引き継いできたものだと、外国人神父たちは驚きを隠せませんでした。

ただし、曖昧になっている面もあり、最低限のことを確実に伝えようとしたため、教理がシンプルになり過ぎた面もあったので、信仰の再教育が行われるようになりました。隠れキリシタンたちは自分たちの家を改造して、人が集まれる秘密教会を作り、そこに神父に来てもらって夜な夜な教理を学び吸収していきました。

そうするうちに、この浦上村以外にも、五島や外海、平戸方面にも隠れキリシタンがいることを、プチジャン神父は知るようになりました。外国人はまだ居留地から出歩くことが許されていなかったので、長崎の天主堂の司祭館に、優秀で信仰のいいキリシタンの青年を匿って教育し、伝道師として育てて、彼らを外海や離島に送るようにしました。

すると、その若い伝道師たちの言葉を聞いて、五島の島々からも続々と隠れキリシタンが復活してきて、それらの島々からも若者たちが長崎に来て、学ぶようになりました。そして幕府の役人が「日本にキリシタンなんて、もう何百年も前から一人もいません」と言っていたこの日本で、まずは5千人のキリシタンが出てきて、島々を含めて7千人、他の地域を合わせて最終的には1万人以上の信徒が発見され、教会に復帰するようになりました。

これらの人々を、「復活キリシタン」と言います。ただし、禁教下であることは変わりがないので、キリシタンの発見も、復活も、教会への復帰も、全部、幕府にはバレないように隠密に行われました。そして信徒発見から2年も経たないうちに、最初の神学生が、長崎の天主堂のそばで、司祭になることを夢見て熱心に勉強するようになっていました。




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