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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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ペリー来航とニッポンの夜明け


モリソン号事件


日本が開国するきっかけの一つとなったのは、1837年のモリソン号事件です。モリソン号事件のあらましはこのようなものです。1832年に、伊勢鳥羽の港を出発した出帆した船が、遠州灘で難破し、14ヶ月もの間太平洋を漂い、生き残った3人が、波乱の末、マカオにいた宣教師ギュツラフの元に預けられるようになりました。ギュツラフはこの3人の漂流民を用いて、聖書の日本語訳を試み、1837年にヨハネによる福音書の翻訳ができました。

それを印刷して、漂流民と共に日本に送り届けようとしましたが、印刷の方が遅れて、結局ギュツラフら日本との交渉を願う欧米人と漂流民たちとだけで、モリソン号に乗って日本を目指しました。しかし「異国船打払令」の出ていた日本は、モリソン号を見るや砲撃し、陸に近づくことを許しませんでした。そこでやむなく船は引き返し、漂流民たちは日本の土を踏むことなく亡くなりました。これをモリソン号事件といいます。

モリソン号の江戸来航は失敗に終わりましたが、この事件は東洋伝道を志す宣教師たちに、日本への関心を呼び起こしました。モリソン号に同乗していたアメリカ人貿易商のキングは「モリソン号日本来航記」という本を著して世論を喚起し、これによってアメリカ政府はペリーを日本に派遣して、日本との国交を結ばせようと動き始めました。


沖縄での試み


その頃カトリックでも日本に再び福音を入れようという動きが始まっていました(カトリックの場合は、キリシタン時代に布教しているので、再布教といいます)。1844年にパリ外国宣教会のフォルカード神父が、琉球の那覇に寄港して、滞在するようになりました。琉球は1609年から日本の支配下にあったので、キリスト教禁令が及んでいたのですが、外国との交流はある程度行われていたので、滞在するだけならばと許されたのです。

しかし2年間、小さな寺から出歩くこともできぬまま、祈りと日本語の勉強に集中するしかありませんでした。2年経つとフォルカード神父は香港に行き、代わりに2人の神父が来ましたが、日本の状況は一向に変わりませんでした。

プロテスタントでも1846年に、イギリス海軍琉球宣教会の宣教師、ベッテルハイムが家族を伴って那覇に来て、護国寺と言う寺に住みました。そして周囲からの拒絶をものともせず、琉球語で書かれたトラクト(小冊子)を配って、伝道しました。それで8年間で3人伝道されましたが、結局本国に引き返してしまいました。


ペリー来航と開国


1853年7月8日、ペリー提督の率いるアメリカ艦船4隻が現れて、日本は正に鼎の沸くが如き様相を呈しました。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」(意味:緑茶の高級品「喜撰」を4杯飲んだだけで、夜眠れなくなったみたいに、異国からの蒸気船が4隻現れただけで、国内が騒乱し夜も眠れなくなった)という狂歌が巷では流行りました。

この時ペリー提督は、アメリカ大統領の国書を役人に渡し、来航の目的、すなわち平和と友好で箱館と下田にアメリカ船の入港を許し、水兵たちの上陸と一時的な滞在、生活必需品の供給を求める旨を伝え、翌年また来るので、その時に日米和親条約を結びたいと希望を述べて、浦賀を去りました。

そして翌1854年、宣言通りにやって来たペリー提督は、品川から川崎沖に、軍艦7隻と他に2隻の堂々たる艦隊を並べて停泊しました。おりしも初代大統領の誕生日だったということで、全艦が一斉に祝砲を打ち鳴らしたのですが、聞いた日本人の方は大変驚きました。幕府も周章狼狽、急きょ横浜村に臨時の応接所を設け、そこで和親条約を締結するための会議を開くこととなりました。

会議は約3週間かけて行なわれ、下田と箱館の開港を決め、12条に及ぶ条約を決定しました。そしてこの条約から18ヵ月後に下田にアメリカ総領事を派遣することが決まりました。これに基づいて、1856年8月、タウンゼント・ハリスがアメリカ大統領の親書を携えて来日したのです。


ハリス来日


ペリーとハリスは共に、アメリカ聖公会に属する、敬虔なクリスチャンでした。特にハリスは一生童貞の誓願を立て、神のために生涯結婚しないで働くことを決心していた人でした。そこでハリスはようやく開国の兆しの見えた日本が、キリスト教をいまだに邪教扱いして禁止していることを憂い、これを必ず撤廃しようと願って来日しました。

また当時はヨーロッパ人によって持ちこまれたアヘンが中国に蔓延し、国の危機を招くほどになっていたので、アヘン商人から日本を守ろうという考えも持っていました。つまり通商条約の締結と、信教の自由の承認が来日の目的でした。

そして2年間粘り強く交渉を続け、1858年、神奈川沖の停泊中の船の中で、ついに日米修好通商条約が結ばれました。この条約は14条から成るものなのですが、ハリスが特に神経を払ったのは、宗教の自由に関する第8条でした。ハリスが提案した規定はこのようなものでした。

「日本にあるアメリカ人自ら其の国の宗法を念じ、礼拝堂を居留地の内に置くも障りなく、並びにその建物を破壊し、アメリカ人宗法を妨ぐることなし。アメリカ人、日本人の堂営を毀傷することなく、また決して日本の神仏の礼拝を妨げ、神体仏像をこぼつる事あるべからず。双方の人民互いに宗旨についての宗論するべからず。日本長崎役所に於いて、踏み絵のしきたりは既に廃せり」

この規定に関してハリスが言葉を選び、慎重に事を運ぼうとしたことが窺われますが、意外にも幕府側は簡単に承認しました。それでハリスは喜んで本国にこのように書いて手紙を送っています。「学校を起し、英語を教え、貧しい人に施療することなどが、伝道のために最も有益な働きになるでしょう」と。ハリスがキリスト教禁止を撤廃させるだけでなく、新たに宣教することまで念頭に置いてい働いていたことが分かります。

アメリカ人のための信教の自由の承認と、踏み絵の廃止を要求が受け入れられたので、ようやく道ができて、翌1859年から日本に続々と宣教師が派遣されてくることとなりました。また居留地に、日本に居住する外国人のために教会堂を建てることができるようになったので、そこに日本人が来てキリスト教に触れるようになりました。


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