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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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新井白石とシドッティ


シドッティの日本潜入


屋久杉で有名な屋久島に、黒船騒動が起こったのは1707年10月のことでした。沖合に見慣れぬ黒っぽい外国船が現れたと、島中が厳戒態勢になりましたが、夜になり見えなくなり、明るくなった時にはいなくなっていたので、「ああ何でもなかったんだ」と島民はほっとしましたが、そうではありませんでした。明くる朝、藤兵衛という炭焼きを生業とする者が山に行くと、奇妙な風体をした男に出会いました。

藤兵衛は前日の黒船騒動を思い出しました。男の名前はジョアン・バプチスタ・シドッティ。イタリアのシチリア島生まれの神父でした。シドッティは、ローマの神学校で学んでいるときに、日本に関する多くの資料を目にし、日本に行きたいという願いを持つようになりました。そして、日本が禁教令を布いているのは、キリスト教を誤解しているからだと考えたシドッティは、自分が日本に行き、その誤解を解いて、再び布教できるようにしようと思ったのです。

マニラで日本語を習得したシドッティは、貿易船を屋久島の沖合で下りて、小舟で単身、日本に乗り込みました。日本人と知り合いになり、外国からの使節として将軍に謁見を申し込むつもりでしたが、藤兵衛が村長に連絡し、関わり合いを恐れた村長が藩に通報したので、すぐに藩の役人に捕まってしまいました。屋久島は薩摩の島津氏の管轄だったので、鹿児島に送られ、南蛮人だからということで長崎に送られ、牢に入れられました。


江戸切支丹屋敷へ


長崎で処刑されてもおかしくない状況でしたが、シドッティにとっては一つの僥倖が起こりました。江戸へと行けることになったのです。それは奇跡的なことでした。なぜなら将軍綱吉の時代であれば、報告が入れば即効殺されていたでしょうが、シドッティが長崎の牢にいるときに綱吉が崩御。第六代将軍に徳川家宣が就任し、家宣の侍講だった新井白石が政治の表舞台に立つようになりました。そしてこの思慮深い知識人、新井白石が、シドッティを取り調べのために江戸に送るよう言ったのです。

江戸に着き、切支丹屋敷に入れられると、そこへ新井白石がやって来て、取り調べが始まりました。後年、この出会いのことを、新井白石は知人への手紙の中で、「一生の奇会だった」(奇妙な出会い、稀なる出会い)と言っています。計4回にわたる取り調べで、新井白石はシドッティの知識の深さと慎み深い様子に感嘆したようです。たとえばこんなことがありました。

「初見の日(第一回取り調べの時)、長く時間が経って既に日が傾いたので、奉行の人に向かって『何時(なんどき)になっておりますか』と聞いたところ、『この辺りには時を打つ鐘もないのでわかりません』とのことだった。シドッティは(奉行に断って庭に下りると)、頭(こうべ)をめぐらして、太陽のあるところを見て、地上にある自分の影を見る。そして指を屈して数えながら『我が国の暦法(暦)に従えば、何年何月何日の何時であります』と言った」 (新井白石著「西洋紀聞」より)  新井白石はシドッティのことを、博覧強記で諸学に習熟した人で、天文・地理の分野では私は到底及びもつかないと述べています。


三つの策


シドッティへの取り調べの後、わずか5日で新井白石は「羅馬人処置献議」を書いて、将軍家宣に上呈しました。そこでシドッティの処遇について三つの案を挙げています。それを現代語にするとこうなります。

「異人(シドッティ)を裁き判決いたしますには、上中下の三策がありましょう。 第一、 彼を本国に帰すことが上策であります。これは難しそうに見えて、易しいと思われます。 第二、彼を囚人として助けおくことが中策であります。これは易しそうで、実は最も難しい。 第三、彼を誅する(死罪とする)ことは下策であります。これは易しそうで、易しい」

白石はこのように献議して、家宣に裁決を任せました。当時、キリシタンは磔獄門、宣教師は最も悲惨に処刑されるというのが通例だったのに、殺すのは下策と、実質的に退けているのですから、白石が冷静かつ寛容で、できればシドッティを助けようとしている姿勢がうかがえます。

そして結局、中策が採られました。家宣がそう裁決したからです。それでシドッティは死ぬまで切支丹屋敷に幽閉されることとなりました。


切支丹屋敷の長助とはる


初代宗門改め役、井上政重によって、1641年に設置されるようになった切支丹屋敷ですが、禁教令が出されて、日本にやって来る宣教師はいなくなり、信徒は摘発されては投獄され、棄教しなければ殺されて、数十年も経つと摘発されるキリシタンもいなくなりました。

そこで1701年、幕府は切支丹屋敷を約半分にし、残る敷地も随時縮小していくようにしました。そんな折に来たのがシドッティでした。天草・島原の乱からは半世紀以上も経ち、国内でキリシタンを見ることはついぞありません。切支丹屋敷もそろそろ手仕舞おうとしていたところに、降ってわいたような事件でした。

幽閉されることとなったシドッティには、中間として、長助とはるという夫婦が付くようになりました。ところがこの夫婦が、1712年、「私たちもキリシタンになりました」と、役人に申し出ました。シドッティの日常生活の見事さ、信仰の深さ、強さに感銘を受け、唯一なる神がいること、確かに天国があることを信じるようになって、入信したというのです。

役人は驚愕しました。ご禁制のキリスト教を信じて、それを隠すのでもなく申し出るとは、狂気の沙汰だ、死にたいのかと。二人を入信させた廉で、シドッティは切支丹屋敷内の劣悪な獄に入れられることになりました。このことは新井白石にも報告がいったはずですが、何のアクションもしていません。自殺行為にも思える、シドッティや中間夫婦の行動を理解できなかったことでしょう。

またこの頃白石は多忙でした。家宣が薨去し、家継が将軍になったのですが、まだ幼児の家継を推し立てて、文治平和を構築するために日夜明け暮れていたのです。その上大奥を揺るがす、絵島生島事件が起こり、下手すると白石まで類が及びそうでした。なので他のことに手を出す余裕もなかったのです。

1714年、長助とはるは切支丹屋敷内で毒殺され、同じ年にシドッティは狭く冷たい半地下の牢、体が入る大きさしかなかったので「詰め牢」と呼ばれていましたが、「詰め牢」で凍死しました。47歳でした。役人が書いた「契利斯督記」には、食を絶って自殺したと書かれていますが、キリスト教で禁じられた自殺を、信仰を守るがために牢に入れられた宣教師がするはずありません。彼らの遺体は切支丹屋敷内に埋められました。


切支丹屋敷の終焉


シドッティが亡くなって約十年後の1725年、切支丹屋敷は火災で全焼し、詰め牢もろとも焼失しました。そして再び建てられることはありませんでした。蔵だけが残り、そこにキリシタンから押収した品が多数保管されていたのですが、1792年、老中は切支丹屋敷を廃止することとし、蔵の中の物は神田見附竹橋御門内の不浄倉に移しました。

こうして約250年間、キリシタンを閉じ込め、死ぬまで出さなかった切支丹屋敷は、キリシタンが摘発されなくなることによって、必要性がなくなり、幕を閉じるようになりました。


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