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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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江戸切支丹屋敷


 

宗門改役 井上政重


のちに宗門改役として辣腕を振るうようになる井上政重は、1585年遠江(とおとうみ。現在の静岡県)に生まれました。父は横須賀城主に仕える武士でしたが亡くなり、井上政重は4男だったため、江戸に出て将軍家に仕える道を選びました。

井上政重は1637年に勃発した天草・島原の乱に出陣し、現地と江戸を行き来して、戦いの趨勢がどうなっているかを報告する役目を果たしました。そして1638年、乱が鎮圧されると、それを将軍家光に報告し、その際に、「キリシタン宗を徹底的に根絶すべきです」と進言しました。

このことが井上政重を出世させる糸口になりました。1639年、東北地方で捕縛されたイエズス会の宣教師3人が、江戸の小伝馬町の牢に送られてきて、家光の側近である老中たちが取り調べましたが、あまりキリシタンに関して知識がなかったので、話がよく通じませんでした。

そこで老中たちは相談の上、この件を井上政重に一任することとしました。井上政重はどこで学んだのか、キリシタンについてとても詳しく、その心理や突かれると痛い所をよくわきまえていたのです。一説には井上政重は一時期キリシタンだったとも言われています。井上政重は宣教師の取調べを10回にわたり行って、キリシタン宗の扱いに慣れた専門家であるという評価を得ました。

1640年、幕府は新たに宗門改役という役職を設置して、初代宗門改役に井上政重を就任させました。そして6千石を加増して、1万石の大名に昇進させたのです。


切支丹屋敷


旗本から大名に格上げされた井上政重ですが、どこかの藩主になったわけではないので、城持ち大名のように江戸に上・中・下の屋敷はなく、自分が住む屋敷を神田に持っていただけでした。しかし大名格ともなれば、それでは手狭であろうということで、幕府から下屋敷用の土地を小日向に与えられました。

現在の文京区小日向にあたる場所ですが、そこに下屋敷を建てた井上政重は、この屋敷に宣教師や主だったキリシタンを収容して、転ばせようと考えるようになりました。なまめかしい女性と一緒に牢に入れて、宣教師を誘惑させ、堕落させて、神父は一生独身の誓いを立てているのですが、それを破らせることで、信仰を奪おうとしたのです。

江戸時代、罪人は小伝馬町にあった牢に入れられていたのですが、そこに宣教師やキリシタンの中でも影響力のある者、指導者たちを入れると、牢内で宣べ伝えをして、そこで信徒を作ってしまうという、幕府にとっては悩みタネがありました。それを解消するためにも、それらの者たちは分けて入牢させた方がよかろうと考えたわけです。

最初は井上政重個人の下屋敷でしたが、1646年からは正式にキリシタンを収容する切支丹屋敷となりました。こういう屋敷を「山屋敷」と呼んだので、江戸切支丹山屋敷ということもあります。その代わり井上政重は霊巌島に新しく下屋敷を拝領し、切支丹屋敷はキリシタン専門の牢として、一つの政府機関となり役人が常駐するようになりました。この切支丹屋敷に1641年頃からイエズス会士2人が入れられ、2年後には武士階級のキリシタンなど20人弱が収容される状態になっていました。


転びバテレン フェレイラ


ここで幕府側の手下として働いていたのが、転びバテレンのフェレイラでした。1633年10月、長崎の西坂で、中浦ジュリアン神父ら6人と共に穴吊りにされたフェレイラは、イエズス会日本管区長代行で、日本宣教23年に及ぶ大ベテランでしたが、わずか5時間で棄教して穴から引き上げられました。他の6人は殉教。誰もが「あの人ならば立派に殉教を遂げるだろうと」言っていたフェレイラだけが、信仰を捨てて生き残ったのです。

そしてキリシタン目明しとして、迫害側に回って働きました。日本名、沢野忠庵を名乗り、日本人妻を娶って、その妻の連れ子と暮らしました。1644年には排耶書(はいやしょ。キリスト教が邪教であると主張する書物)である「顕偽録」などを著しました。


殉教者マストリリ神父


フェレイラの棄教がヨーロッパに伝えられると、イエズス会はもちろん、カトリック世界全体に大きな衝撃を与えました。それで、自分の血で、この棄教者の罪を償おうと、日本行きを願い出る修道者が多く出ました。ナポリの公爵の息子として生まれたマストリリ神父もその一人でした。

イエズス会を代表する神父が拷問に屈して信仰を捨てたなど、到底信じることができず、また万が一そうであったなら、そのままにしてはおけない、まずは信仰に立ち返るように説得し、それが叶わないならば、自分が代わりに命を捧げて、神様に贖罪しようと、そう考えたのです。

幾多の地域を経由して1637年、日本に到着したマストリリ神父は、すぐに捕らえられ、長崎に護送されました。そして長崎奉行に引き渡された神父は、丸2日間水責めと梯子責めにされ、それでも立派に受け答えするので、刑場に連行されました。そこで役人たちは神父を裸にし、熱く熱した焼き鏝を陰部に押し付けて焼きました。

マストリリ神父は、「私は我が身のすべてを神に捧げているので、いかなる苦しみも拒みはしない。しかし私の手足だけではまだ足りず、人間の羞恥心を傷つける、このけがらわしい拷問は、いかなる野蛮人も行わないものだ」と言い、これを聞いた役人は止めました。

しかし今度は穴吊りにされ、息絶え絶えのまま4日間放置されました。それでも不屈の精神を見せたため、奉行は穴から引き出されて斬首されました。遺体は寸断された上、焼いて灰にされ、川に捨てられました。マストリリ神父はフェレイラと会わぬまま殉教しました。


無残 フェレイラ救援隊


フェレイラのために日本にやってくる者は、これで終わりではありませんでした。この後第一次、第二次と、二度にわたり、フェレイラ救援隊が日本を目指しました。1642年、ルビノ神父を団長とする、第一次フェレイラ救援隊7名が、鹿児島の下甑島に上陸しました。洞窟に隠れましたが、すぐに見つけられ、長崎に護送されましたが、奉行所で取り調べを受ける際に通訳として呼ばれたのが、他ならぬフェレイラでした。

ルビノ神父はキリシタンの教えについて奉行に答え、フェレイラには信仰に立ち返るよう話しました。フェレイラは心の痛みに耐え切れなくなり、その場から逃げるように立ち去りました。結局フェレイラは棄教を取り消すことなく、ルビノ神父らは拷問にかけられることとなりました。

水責めが7ヶ月間もの間、一日おきに行われるなど、前代未聞の責苦を受けましたが、キリストの教えを拒むことがなかったため、ついには穴吊りにかけられました。4人が穴吊りで死に、丸9日も穴の中で生きていた3人は、「キリスト教を宣べ伝えたかど」で斬首されました。実際は誰にも宣べ伝える機会を与えられず、ただ苦しみの中にいただけでしたが。彼らの遺体はやはり切り刻まれ、灰にされ、そして海に撒かれました。

ルビノ神父らの来日からおよそ1年後の1643年6月にも、ペドロ・マルケスを長とする第二次フェレイラ救援隊10名が筑前の梶目大島に上陸しました。一行の目的も、フェレイラに立ち返りを勧めること、自分たちの血で彼の罪を償うことにありました。日本人に変装していましたが、すぐに発見され逮捕されました。しかし長崎に送られるかと思いきや、奉行が幕府に伺いを立てたところ、江戸に送れという命令が下りました。

そこで、長崎奉行は、通訳の日本人2人とキリシタン目明しフェレイラをつけて、彼らを江戸に護送しました。江戸では宗門改役の井上政重が待ち構えていて、巧みに彼らの心の隙に入り込み、信仰を揺り動かしました。そして神父4人を含む10人全員が転んでしまったのです。彼らは切支丹屋敷に幽閉され、日本人妻を娶り、ある者は15年、ある者は43年も中で暮して亡くなりました。

フェレイラ救援の結果は無残なものでした。第一次救出隊は「未曾有の」全員殉教で、第二次救出隊は「未曾有の」全員棄教となったからです。フェレイラは信仰に立ち返らず、ローマ教皇は日本に行くことをカトリック教会全体に禁止しました。


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