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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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天草・島原の乱



各地のキリシタン拷問と殉教


絵踏みは、キリスト教徒ではないしるしとして、聖画やメダイをはめ込んだ板(これを「踏絵」という)を踏みつけにするもので、最初に行われたのは1632年、雲仙の殉教のときでした。その後は習慣のようになり、特にキリシタンが多かった長崎では年中行事の一つとして暦にも記されるようになりました。

穴吊りが最初に行われたのは、1633年、日本人修道士ニコラオ永原の殉教のときでした。2メートルほどの穴を掘り、その上に体を縄できつく縛った信徒を逆さに吊るすというものです。頭に血が上ってすぐに死んでしまっては拷問の意味がないということで、苦しみを長引かせるために額などを切って血を流させました。信徒が苦しみに耐え切れず「転ぶ」ことを期待した拷問でした。

この穴吊りの拷問を受けて、天正遣欧使節の一人であった中浦ジュリアン神父は殉教し、中浦神父と並んで吊るされていたフェレイラ神父は棄教しました。


天草・島原の乱


キリシタンによる農民一揆として世に知られる「天草・島原の乱」のきっかけになったのは、領主による搾取と虐待でした。島原城主松倉勝家は島原城建設費用捻出のために、領民に重税を課し、払えない者に蓑を着せて火をつけて殺した(「蓑踊り」とよんだ)り、妊婦を呼び出して冷たい水に漬ける等の暴挙を行いました。海を挟んだ天草では、領主寺沢堅高による「縄延ばし」(実際より多い石高を見積もって税を課すこと)が行われ、領民は重税にあえいでいました。

1637年、天草と島原の農民は、松倉勝家と寺沢堅高に向って反旗を翻します。彼らのリーダーとして立てられたのは天草四郎時貞。洗礼名はジェロニモで、当時18歳でした。四郎の父は小西行長の元家臣で、父やその他の浪人が戦術的な指導をしていたと考えられています。

当初は破竹の勢いで進軍しましたが、森岳城を奪えなかったところから旗色が悪くなり、海を渡って原城に立て籠もることとなりました。幕府は板倉重昌の指揮下に、大名たちを集めて攻撃しましたが城を落とせず、第二陣として松平信綱が12万の幕府軍を率いて城を囲み、オランダ船からも砲撃を行わせて圧迫しました。


原城の落城


籠城した者たちはよく耐え抜きましたが、ついに武器も食糧も尽き果てて、1638年総攻撃を受けて1万7千人の男子は皆戦死しました。落城の翌日、武器を取ることもせず城内の堀に隠れていた女子供2万人が一人残らず殺されました。原城内で唯一生き残ったのは、一揆軍を裏切り敵の手引きをしようとした絵師山田右衛門作だけでした。

天草四郎と一揆の指導者の首は、長崎に運ばれ出島の橋のたもとに晒されました。その後将軍家光はキリシタン弾圧をより徹底して行うよう、各地の大名に厳命。キリスト教禁令は幕府がある限り存続する決定的なものとなりました。




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