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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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将軍家光と江戸の大殉教



将軍秀忠と大殉教


家康の死後、二代将軍となった秀忠は単にキリスト教禁令を踏襲したのではなく、そこに鎖国体制を加えることで、より強力な弾圧体制を布いていくこととなりました。駿府との二元政治も終わったため中央集権的な指令系統となり、日本全国で一貫した政治が行われるようになったのです。

1619年、天皇へのデモンストレーションとして、伏見に大軍を率いてやって来た秀忠は、キリシタンが京都にいることを聞いて激怒。主だった信徒を捕らえて処刑するように命じました。そこで橋本七右衛門一家を始めとする52名が火刑に処されて殉教しました。これを京都の大殉教といいます。


家光の将軍就任とキリシタン処刑


秀忠の隠居後、将軍職を継いだ家光は、自らを「生まれながらの将軍」であると、居並ぶ大名たちを前に宣言し、徳川幕府が確固たるものとなったことを認識させました。また就任祝いに江戸に参府した諸大名たちを札の辻に集め、そこでヨハネ原主水らキリシタンと宣教師50名を火焙りにしました。

これは各藩でこのようにキリシタンを処刑し、根絶やしにしなければ、藩主たちの責任を問うという意思表示で、その意向を重く受け止めた諸大名は、自領に戻って信徒の検挙と処罰に力を注ぐようになりました。


雲仙の地獄責め


各地で迫害の嵐が巻き起こり、殉教者は数え切れないほどに上りました。殉教者たちが死さえも恐れず命を捧げるのを見た信徒たちが、天国が確かなものであると確信し、信仰が励まされるのを見た役人は、キリシタンを殺すのではなく、棄教させる方向へと方針転換をします。

そこで考え出されたのが、地獄と呼ばれる熱湯の吹き出し口に、信徒を入れては出すという拷問でした。長崎の雲仙で行われたので、雲仙の地獄責めと云われています。パウロ内堀やアントニオ石田神父などがその拷問を受けましたが、肌を溶かすほどの熱湯から引き出されるたびに神の名を呼び、信仰を捨てることはありませんでした。

そのためこの拷問は数年間で取りやめとなりました。各地での殉教者の姿は信仰の証となり、天への栄光となりました。




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