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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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1612年、キリスト教禁令



マードレ・デ・デウス号と岡本大八事件


1610年長崎に入港したマードレ・デ・デウス号は、以前マカオで多数の日本人死者を出す事件を起こしたアンドレ・ベッソア司令官が船長を務める船でした。家康の命を受けたキリシタン大名有馬晴信は、長崎奉行と協力して攻撃し、行き場を失ったベッソアはマードレ・デ・デウス号に火を放って自殺しました。

この恩賞として晴信は家康から刀を賜り、息子直純の嫁に家康の曾孫国姫をめあわせてもらったのですが、そこに本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八が声をかけてきました。自分が本多正純を通して家康に働きかけ、秀吉時代に失った領地を取り戻すことができる。そのために運動資金として賄賂が必要であると。

その話を信じ込んだ晴信が大八に賄賂を送りましたが、すべては大八の狂言でした。大八は晴信に偽の宛行状(あてがいじょう)まで与えて信用させましたが、家康からは一向に領地の話が出ず、しびれをきらした晴信が本多正純に問い合わせたことから、すべてがウソであることが露見しました。


禁教令の発布と教会取り壊し


晴信は駿府で大八と対決し、大八の虚偽が明らかになったので、大八は安倍川で処刑されましたが、所領に関して贈収賄が行われたことを重く見た家康は、晴信を甲斐へ流刑とし、そこで死ぬよう言い渡しました。これを岡本大八事件といいますが、この事件の当事者が共にキリシタンであったことは、家康のキリスト教嫌いを決定的なものにしました。

1612年家康は幕府の名で、幕府直轄地にキリスト教禁令を発しました。江戸や駿府の教会は取り壊され、キリスト教を信じただけで罪人とされることとなりました。


1614年の禁教令で全国へ拡大


直轄領に出された禁教令は1614年1月24日、将軍秀忠の朱印を押して全国に発布されました。この「伴天連追放文」は金地院崇伝が起草したとされています。金沢で客将となっていた高山右近の元にも追放の命令が届き、内藤如庵と家族らと共に長崎に向い、そこからマニラへと流されました。畿内にいた他の主だったキリシタンたちは津軽に流刑となり、食べるのにも困る生活を強いられました。

1616年家康は死去し、江戸と駿府の二元政治は終わりましたが、第二代将軍秀忠は「伴天連宗門御禁制奉書」を発して、より鎖国体制を強固なものにしました。また秀忠は国民を監視しやすくするため五人組を組織。幕府の目からは何人も逃れられない構造が作り上げられていきました。




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