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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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天下分け目の関ヶ原



関白秀吉の死


26聖人の殉教から1年の後、秀吉は死去しました。死を前にして朝鮮への侵略戦争から兵を引き揚げることを命じたので、無意味で不毛な戦争から解放された諸大名は安堵の息を吐きました。秀吉は後継者の秀頼がまだ幼いことを案じて、有力な5人の大名を五大老に任じて向後を託しました。

五大老の一人として秀吉に秀頼の後見を頼まれていた徳川家康ですが、秀吉が死ぬと約束を反故にして豊臣家の切り崩しに着手します。豊臣方の重臣石田三成は家康に対抗するために、キリスト教徒の保護を約束して小西行長を味方に引き入れました。


天下分け目の関ヶ原


1600年10月、関ヶ原の戦いで豊臣側である西軍は負け、敗戦の責任を負った石田三成と小西行長は京の六条河原で処刑されました。この戦いではキリシタン大名たちの足並みは一致せず、西軍につく者もあれば東軍につく者もあるといった状況でした。家康側もキリシタンに好意的な様子を見せていたので、秀吉の伴天連追放令で傾いたキリスト教界を、家康の下で復元しようと考えた大名もいたことでしょう。

1603年江戸に幕府を開いた家康は、中央集権的な支配体制を整え始めました。大名の領地はすべて徳川将軍から与えられ、大名や武士はすべて将軍の家臣として位置づけられるという、一元的な支配構造です。このような強力な幕藩体制の枠組みの中に取り込まれていく中で、どうにかして幕府に近づきキリスト教を認めさせ、栄えさせる方向に持って行きたいと考えていたのがキリシタンたちの共通した思いでした。


三浦按針ことウィリアム・アダムス


1600年にオランダ船が豊後に漂着し、その船にイギリス人航海士ウィリアム・アダムスが乗っていました。このイギリス人を気に入った家康は自らの顧問として置き、日本人名「三浦按針」を与えて、海外情勢などの情報と意見を聞くようになりました。

当時ヨーロッパはスペイン、ポルトガルといったカトリック国と、オランダ、ドイツなどのプロテスタント国が血みどろの戦いを続けていました。プロテスタント国側の考えを持つウィリアム・アダムスは、事あるごとにスペイン、ポルトガルの悪事を家康に訴え、敵意を植え付けました。

元々キリスト教嫌いだった家康は、支配体制を確固とするまでは宣教師に近づき利用しましたが、体制が整うにつれ態度を硬化させていきました。




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