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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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26聖人の殉教



ペドロ・バプチスタの誤解とキリシタン捕縛


サン・フェリペ号事件をきっかけに、一気に迫害の嵐が巻き起こりました。秀吉の命を受けた石田三成が、京都と大坂のフランシスコ会教会を包囲したとき、ペドロ・バプチスタ神父は自らの誤解を認めざるを得ませんでした。バプチスタ神父は秀吉から教会用地を与えられたことを布教が認められたと解して、公然と宣教活動を繰り広げ、それをイエズス会神父からたしなめられても聞く耳を持たなかったからです。

京坂のキリシタンが数千人に上るとの報告を受けた三成は、すべての信徒を処罰するのが秀吉の意思ではないと、3千人のキリシタンの名が書かれた名簿を破棄し、教会で中心的に活動する信徒と宣教師24名を見せしめとして捕らえて牢に入れました。


24名から26名へ


牢の中で沙汰を待つキリシタンは、そこでも役人に福音を説き、讃美と祈りで過ごしました。秀吉から下った命令は死刑。京都で両耳と鼻を削ぎ市中引き回しとし、キリシタンの多い長崎まで連行した上で磔刑にかけるというものでした。

京都の一条戻り橋の辻で、逃亡防止のために耳と鼻を削ぐはずでしたが、そこまでしなくてもよいとの三成の言葉で、左の耳たぶだけを切り落とされ、24名は京の町を引き回され、大坂や堺でも同様に見せしめのために人通りの多い道を引き立てられて行きました。道中、説教のうまかったパウロ三木は人々に宣べ伝えながら、子供たちは讃美しながら長崎への道を歩みました。

彼らの助けをするためについて来たキリシタン2名も、途中で自ら進んで受難者の列に加えられ、逃亡防止のために耳たぶを削がれたのに、逃亡どころか人数が増えるということが起こりました。


殉教の丘


1596年に京都を出発したキリシタンたちは一月余りかけて長崎に向い、1597年2月5日、西坂の丘で十字架に縛り付けられ、槍で突かれて殉教しました。その様子は竹矢来の外と港の沖合いに浮かぶ船から数千人の人々が見守っていました。

その中にイエズス会司祭ルイス・フロイスもおり、この様子を詳細に記録してヨーロッパに送りました。これは国の最高権力者の命令による最初のキリシタン処刑で、ここからキリシタンの殉教の歴史が始まりました。処刑から265年経った1862年、カトリック教会ではこの殉教者たちを聖人に列したので、彼らは日本26聖人と呼ばれています。




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