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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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運命のサン・フェリペ号



禁教後の動き


伴天連追放令を出すと、秀吉は高山右近を改易して追放、続いてキリシタン大名たちに棄教するよう命じました。そこで洗礼を受けたばかりの黒田長政、大友義統、大村喜前が命令に屈し、小西行長は命に服した振りをしながら追放された右近らを領地に匿いました。また黒田官兵衛、蒲生氏郷、有馬晴信は秀吉に楯突かずに信仰を守る道を選びました。

宣教師とセミナリヨの生徒は長崎の島に集められ、畿内の教会は破壊されました。多くの信徒がいた長崎でも教会は閉鎖され、高山右近はオルガンティーノ神父と小西行長の領地であった小豆島に隠れました。公然と禁教令に反対する大名は一人もおらず、自分の権威が認められているのを見た秀吉は、それ以上迫害を進めようとはしませんでした。


天正遣欧少年使節団の帰国


1590年7月、長崎の港に天正遣欧使節団の4人の少年とヴァリニャーノ神父が姿を表しました。8年もの歳月をかけヨーロッパのキリスト教世界を見聞し、最新機器である活版印刷機を携えて帰国した彼らでしたが、それが生かされるかは未知数でした。世はキリスト教を禁じる禁令下となっていたからです。

しかしキリシタンにとっては希望が持てる春がやって来ました。翌1591年3月、秀吉はインド副王使節という名目でヴァリニャーノに謁見を許し、4人の遣欧使節や宣教師と共に京都の聚楽第へと招いたのです。

これを機に禁教令が解かれるのではないかと期待する向きもありましたが、それは実現しませんでした。ヨーロッパを見聞した4人の青年は天草へ行き、世俗の栄達ではなく神への奉仕に生きようと、イエズス会の修練院に入りました。


運命を変えたサン・フェリペ号事件


1596年の秋、一隻の船が座礁して四国の海岸に漂着しました。マニラとアカプルコを結ぶガレオン船、サン・フェリペ号です。積荷に魅力を感じた秀吉は、土佐の大名長曾我部に命じてこれを没収しました。積荷を返してくれるよう訴えるスペイン人が、大坂から来た奉行増田長盛と言い争うようになったのですが、その中で航海士が脅しの言葉を口にしたと報告されました。

「ヨーロッパ人は宣教師を先に派遣して、後でその活動を利用してその国を征服するのだ」と。他国を侵略する前に宣教師を送ったということは、ヨーロッパ諸国の歴史にないことなので、そんなふうに言うはずがないのですが、そう報告されたために、あるいはそのような虚偽の報告をして、積荷没収等は正当化されました。

船にフランシスコ会の神父が乗っていたことも、伴天連追放令に背いているということで処罰の理由とされ、サン・フェリペ号に乗船していたフィリポ・デ・ヘスス神父は捕らえられ京都の獄に入れられました。




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