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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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秀吉による伴天連追放令



伴天連追放令が出されるまで


信長の死後天下を獲った豊臣秀吉も、当初キリシタンに対しては好意的でした。しかし日本管区を任されたコエリョは、ヴァリニャーノ与えた訓戒を忘れ、次第に政治に介入していくようになります。1586年、九州のキリシタン大名大友宗麟は、島津氏の猛攻を受けて領土を失いそうになり、秀吉に援軍を要請しましたが、この際コエリョは自らも大坂に上り秀吉に軍事援助を申し出たのです。

1587年初頭、秀吉は援軍を送って島津氏を制圧しましたが、心労がたたった大友宗麟は6月に死去し、それに先立つこと1ヶ月前には大村純忠が亡くなって、キリシタンの保護者が相次いで失われることとなりました。

島津氏の討伐で九州入りした秀吉は、九州の主だった大名の多くがキリスト教に入信して、しかも熱心であることに気づきました。そして彼らが信仰のゆえに宣教師の言いなりになり、外国勢力と手を携えて日本を奪うのではないかという疑念を抱きます。大村純忠が長崎を寄進したこともまた、教会に領土的野心があると疑わせる原因となりました。


コエリョの政治介入と妄挙


箱崎に陣を設けた秀吉は、政治的な手腕を発揮して次々と実行していきました。大名や有力な商人との会合や博多の視察などです。九州を平定した後には朝鮮、中国への侵攻を秀吉は考えていたのです。そこへコエリョはフスタ船でやって来て、秀吉を乗せて博多湾をめぐりました。

秀吉は機嫌よさそうにコエリョに接しながら、様々な質問を投げかけました。秀吉の疑心を見抜いた高山右近と小西行長は、コエリョにフスタ船を秀吉への贈り物にするように勧めましたが、コエリョはこれを理解せず、そうしませんでした。


伴天連追放令


博多湾を回った5日後、秀吉は態度を豹変して、まず高山右近にキリスト教を棄てるよう迫る書状を送りました。右近は棄教を拒み、説得のために送られた千利休にもその意志が固いことを告げて宿舎を立ち去りました。続いて秀吉は5か条からなる伴天連追放令を発して、20日以内に宣教師は全員日本を退去すべしとしたのです。

すべてうまくいっていると考えていたコエリョにとっては晴天の霹靂で、慌てたコエリョはフィリピンに軍事要請しましたが断られ、ショックで病に伏せるようになりました。再来日したヴァリニャーノにも、コエリョは各位に働きかけて大規模な軍事援助を要請すべきだと訴え、自らの不明と妄挙がこのような事態を招いたのだということを認めないまま没しました。

ヴァリニャーノは不穏当な大砲を売却し、秀吉の疑いを解く努力をしましたが、伴天連追放令は解かれず遺恨を残すこととなりました。




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