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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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キリシタン大名と天正遣欧使節



キリシタン大名現る


宣教が進むうちに、各地の大名や城主の中にも自ら進んでキリシタンになる者が出てきました。キリシタン大名、キリシタン城主とよばれる人たちです。日本で最初にキリシタンとなった大名は、今の長崎県を支配していた大村純忠です。大村純忠は長崎と茂木港をイエズス会に寄進しました。ヴァリニャーノは必要なときはいつでも返還できるという条件付で承諾しましたが、このことは後に問題を生むこととなりました。

当時は戦国時代だったので、鉄砲に代表される西洋の最新の技術を入手できる南蛮貿易は、大名にとって大きな魅力であり、貿易と密接なつながりを持つ宣教師たちと交渉することは、その取っ掛かりになるだろうと期待されました。なのでキリシタン大名とよばれる者たちは、最盛期には30数名にも上りました。


天正遣欧使節の派遣


ヴァリニャーノが企画した天正遣欧使節は、九州の3人のキリシタン大名、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名で派遣されることとなりました。ローマ教皇とポルトガル国王に日本の教会の挨拶を伝え、教会のために必要な援助を求めること、帰国してから日本人に西洋とキリスト教の栄光を適切に紹介することがその目的でした。

正使は伊東マンショと千々石ミゲル、副使は中浦ジュリアンと原マルチノで、少年たちの教師として日本人修道士ジョージ・ロヨラが選ばれ、他に2人の少年、コンスタンティノ・ドゥラードとアゴスティニョが手助けのため加えられました。

1582年に長崎港を出帆。ヴァリニャーノと若いポルトガル人宣教師ディエゴ・メスキータも一緒でした。途中のゴアでヴァリニャーノはやむを得ず使節から離れますが、一行はゴアから喜望峰をまわってポルトガルに向い、1584年にリスボンに上陸しました。

そして1585年、ようやくローマに着き、教皇グレゴリオ13世に謁見。ところがグレゴリオ13世はそのわずか数日後に帰天したので、使節たちは次の教皇シクストゥス5世の戴冠式にもあずかることができました。


遣欧使節の帰国


使節たちは栄光に満ちたヨーロッパ旅行を経験しましたが、思いがけず往復9年弱もの長旅になったので、1590年に帰国した使節団は日本の変貌に驚くほかありませんでした。使節が出発した3ヵ月後に信長は本能寺に斃れ、1587年に秀吉は伴天連追放令を出していたのです。

宣教師として来日することができないヴァリニャーノは、インド総督の使節として再来日し秀吉に謁見を申し出、4人の少年たちと京都の聚楽第に赴くことを許可されました。秀吉は4人の少年たちと歓談し、彼らが奏でる音楽に耳を傾けました。

秀吉は禁教令を取り消すことはしませんでしたが、少年たちのうち誰か1人自分に仕官するつもりはないかと問いかけるなど、面会は終始和やかなものとなりました。この頃までは秀吉の禁教令も厳しいものではなく、キリシタンの間にもいずれ禁教も解かれるのではないかという楽観論が広がりました。


キリシタン大名高山右近


貿易という現世利益を目的としたキリスト教受容は、キリスト教禁令が出されるともろくも崩れ去りましたが、その中で最後まで一貫して信仰生活を維持した者もいました。大村純忠や高山右近、大友宗麟などです。また表面的には秀吉に屈し棄教したように見せかけながら、信仰を持ち続けた者もいます。小西行長や黒田如水をその例として挙げることができます。

しかし「キリシタンをやめるか大名をやめるか」と迫られて、領地を返上して一介の浪人となり、果てには国外追放にまでなっても信仰を捨てなかった大名は、高山右近だけです。父である高山図書が日本人修道士ロレンソの説教を聞いて入信を決意したことから、一緒に洗礼を受けることとなった右近は、追放先のマニラで生涯を終えるまで信仰の模範を示しました。




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