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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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名プロデューサー、ヴァリニャーノ



巡察師ヴァリニャーノ


1539年ナポリの名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、1579年に初めて日本に上陸しました。彼が来日したとき、日本のキリシタン信徒数は約10万人とされ、ザビエル来日から30年で大きな実を結んだと評価されていましたが、内側には様々な問題がありました。

その主な原因は布教長カブラルの偏狭な日本人観とそれに基づく誤った宣教方針でした。カブラルは日本人を蔑視していたので、宣教師に日本語を覚える機会を与えず、日本人信徒が同宿(どうじゅく。宣教師の手伝いをする者)以上の指導者になる道を封じていました。

これにより、日本人をこよなく愛し現地主義を採る宣教師オルガンティーノと対立し、教会内に不満と誤解が充満していたのです。ヴァリニャーノは1年間日本に滞在し、日本人を考察し解決策を探し、日本に来ている宣教師を集めて会議を開きました。


ヴァリニャーノの英断と改革


会議で改革案を掲げたヴァリニャーノは全国の宣教師から支持を取り付けました。会議後、自らの考えに固執するカブラルに代えて、ヴァリニャーノは初代日本準管区長にコエリョを任命。日本人同宿の待遇改善も図られ、神学教育のためのセミナリヨ(小神学校)が設置されることとなりました。

このような改革を受けて日本の教会は息を吹き返し、1580年代に飛躍的な成長を遂げました。宣教師たちは信徒獲得に努める一方で、時の権力者とも積極的に会い交渉しました。ヴァリニャーノは1581年に京都に入り、信長に謁見しましたが、キリスト教に興味を覚えた信長は以後たびたびヴァリニャーノを引見し厚遇しています。


天正遣欧使節を計画


また1582年の帰国にあたり、キリシタン大名の名代として日本人の少年たちをヨーロッパに派遣することを計画しました。これが天正遣欧使節です。ヨーロッパで日本宣教の成果を示すと共に日本への関心を高めようとするもので、同時に少年たちがヨーロッパでキリスト教文化を見聞し吸収することで、後に日本でそれを広く伝えることを期待していました。




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