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信長の栄光と挫折



織田信長とキリスト教


日本にキリスト教が入って来たのは、戦国時代。織田信長(1534〜82)が天下統一を目指して邁進しているときでした。ヨーロッパから伝来した鉄砲を活用することで、駿河の雄 今川義元を撃破した信長は、同じヨーロッパからのキリスト教にも深い関心を寄せ、宣教師らに好意的に接しました。

信長と直接18回も会った宣教師ルイス・フロイス(1532〜1597)によると、「彼(信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的卜占や迷信的慣習の軽蔑者」でした。

このような信長にとって、比叡山の焼き討ちや石仏を石段に転用するなどのことは何でもないことでした。特に世俗に溺れ堕落していた仏教僧には憎悪ともいうべき過酷さで対しました。しかしキリスト教については次のように語りました。

「御身らに対する反対者の陰謀が大きく、予の許で頻繁に偽証する者があるが、予は伴天連たちの行状を承知しており、その教えが善良で真実であることをわきまえているので、予が生存中は何人の嫌がらせも妨害も御身らは受けはしないであろうし、自領内でデウスの教えを説き、教会を建築することを保証する」


自分を神として拝めと言った信長


信長はイエズス会士たちに破格の厚遇を示し、彼の居城となった安土の城下町に教会を建設するように言い、日本巡察師ヴァリニャーノが資金不足ですぐに実現できないことを伝えると、信長は建設費用の援助を申し出るほどでした。

このような信長の保護を受けて、キリスト教は西日本に広がり繁栄していきましたが、信長の果断な性格を知る教会側では注意を怠りませんでした。海外からの新しい知識と貿易による利益が目的であることが明白で、宣教師の清廉潔白さに感心はするものの、信長自身には信仰心がないことを見抜いていたからです。

信長は晩年、権力の頂点に至るにつれて自らを神とする思想を持つようになりました。城の敷地内に総見寺という寺を建て、信長自身が礼拝されるべき神体だとし、礼拝する者には長寿や健康、繁栄がもたらされると言いました。また城内に「盆山」と称する石を置き、自分の誕生日には神体代わりに拝ませました。


信長討たれる


1582年6月21日(天正10年6月2日)、京都の本能寺に宿泊していた信長は家臣の明智光秀に討たれて自刃しました。光秀の謀反の理由については、恨みによるもの、天下獲りの野望、黒幕が唆したなどの説がありますが、光秀もまた豊臣秀吉らに討伐され、「三日天下」(実際には1週間程度)に終わりました。

信長後の後継者争いは、「中国大返し」をして帰京し山崎の戦いで勝利した秀吉が、後継問題を左右する清洲会議で主導権を握り、実質的に後継者の地位を確立することとなりました。

イエズス会の報告書では、信長が自身を神として崇拝させようとしたことを悪魔の働きだとし、それから間もなく彼が本能寺で滅亡したことを、デウスの裁きであると断じています。




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